2009/01/27

ブータン 内なる聖地


先日24日に清里フォトアートミュージアムにて井津建郎さんの展示会を拝見して来ました。
数々の素晴らしい神聖な写真から漂う独特の澄んだ空気に包まれ、崇高な作品に触れた時の安堵感に心も体も癒されました。チベットの美しいカイラス山を見て井津さんは何を思い、写真を撮られたのでしょう。きっとそこに住む神々を感じたのではないかと想像してしまいます。
そして、ブータンという神聖な場所を選ばれた理由が書かれている写真集『井津建郎 ブータン内なる聖地』から一部を抜粋し、ブータンという国がが掲げて来た思想をお伝え出来ればと思います。


ブータンという国は1000年以上にも渡り仏教が続いた国である。『国民総幸福量(GNH=Gross National Happiness)』を第4代国王(ジグミ•シンゲ•ワンチュク)は早くも1986年から唱え、国民の幸福を国家統治の究極の目的とするGNHをGDP(Gross Domestic Production)国内総生産よりも重要だと語って来た。2500年前に仏教が唱えた通り、感情を持つすべての生き物に共通する願いが幸せになる事であり、そして現在、幸福こそが世界を一つにまとめる究極の目的だと言う方向へ向かっている。GDPは欲望や新たな必要性、新たな願望に偏向していて、保護や意図的に保護されるものは評価に値しない。資源の枯渇と環境破壊の脅威が高まる時代にあって、私たちが進歩の指標とすべきは保護である。消費や生産を控えることだ。何を生産し、消費するかだけで発展が測れるわけではない。脅迫的な所有願望から解き放たれることも、幸福につながる自由の源だということを仏教は教えてくれる。
GDPは資本と人的資源の生産量を巧みに数値化する。一方GNHの世界観において私たちが重要視すべきは、環境や精神的、社会的な財産だ。GDPは資金労働に偏向し、余暇や無償労働は無視し、評価する事も注意を払う事もしない。家族が無償で担っている育児や老人介護がもしある日、悲劇的な結末を迎えたとしても、GDPは変わらない。むしろ、そうしたケアを施設に頼む事でGDPは上昇する事になる。けれども、サービス産業によって行われるケアと家族ならではの情愛との違いは大きい。幸福度の指標としてのGDPが抱えるこうした欠陥は、くりかえし指摘されてきたように、収入(GDP)の上昇と、アメリカ、イギリス、日本などの多くの国々における生活満足度の相関しない事実により裏付けられる。
私たちが生きる社会は、幸福は外的な刺激の高まりによって決まるというメッセージに溢れている。外的な刺激によってもたらされる幸福ばかりを強調すれば、物質的な消費への欲求も高まる。贅沢な食事から海沿いの豪邸まで、感覚的な喜びは所有意識とともに高まって行くのである。しかし仏教的な考え方では、幸福は瞑想等の内的な修行を通して得られるものだとし、その研究は神経科学の分野で進められている。幸福を認知する手法は、現在きわめて利己的だ。自己中心的な幸福論に陥る可能性がある。幸福は相互関係の質や方向を抜きにしては定義出来ない。利益を得る事と与える事、分け与える事と与えられる事、という開放的な関係から生まれる幸福。不幸や苦難は豊かな相互関係の崩壊がもたらすものであり、無知は相互関係の否定と考えられている。自分の決断は、そこに関わるあらゆるものの開放的な関係を促進するだろうか?貿易、税、技術、都市化、教育、健康、工業、農業といった社会経済的な計画立案も、仏教的観点からすると相互関係の質に影響する。
ブータン人に最上の幸福をもたらす要素はおおまかに、経済的な保証、家族関係、健康、農業、教育、宗教活動、よい統治、道徳でありこれらの要素はすべて公益と結びついている。
社会的、経済的、政治的、精神的、そして科学技術の変化がどのような影響を与えるかで、反映もすれば衰退もする。発展はどうすれば、より高く、より強く、よりよい関係を私たちにもたらしてくれるのだろうか。社会が多様で有意義であるために、それぞれが異なる能力を持つ必要がある以上、発展は、相互に関わり合う能力の改善、よりよい関係よりよい貢献をなす能力につながる。
幸福は相対的なものではなく、相互的なものである。発展とは、多様性にもとづく関係を構築するために必要な、それぞれに異なる能力を高める事である。
『ブータン 内なる聖地』より